ジャニーズ事務所の新社長となった東山紀之さん。
端正なマスクと凛とした佇まいを見ていると、お坊ちゃんぽい感じがするのですが、実はかなりの苦労人でびっくりしました。
生い立ちを知ると、芸能界であそこまでの地位に上り詰めたのは、ハングリー精神がすごかったからなんだろうと、妙に納得してしまいます。
ということで今回は複雑な家庭で育った東山紀之さんの生い立ちについて調べてみました。
東山紀之の生い立ち
幼少期
東山紀之さんが幼い頃に住んでいた場所は、風俗施設が密集する界隈でした。
「僕の一家は、川崎駅近く、ソープランドが密集する界隈の、父方の祖父母の家で暮らしていた」
カワサキ・キッド 東山紀之
父方の祖父母宅で暮らしていたときのエピソードに、借金取りが来ていたんだろうことがわかるエピソードがありました。
なんと1歳の頃に見た光景が「母親が玄関で土下座をしていて、そのかたわらに包丁が刺さっている」という想像を絶するもので、このことは今でも忘れられないと東山紀之さんは話しています。
母が自宅玄関で男たちに土下座をして、そのかたわらの畳には包丁が刺さっている場面が、東山が1歳頃に見た光景だといい、今でもその光景が脳裏に焼きついて離れないという。
日刊大衆
祖父と父親が酒乱でギャンブル好きだったため借金を抱えていたのだそう。
さらには酔っ払った祖父が暴れて、そのせいでポットが倒れて、幼い東山紀之さんの足に熱湯がかかり大火傷をしてしまったというエピソードもありました。
この大火傷があったために、東山さんは今でも「1日1千回の腹筋」を20年以上続けたり、ボクシングをしたりと筋力を鍛えなくてはならないと話しています。
「祖父が熱湯をひっくり返したとき、僕は足を大やけどしたんです。
それで体のバランスがあまりよくなくて、たえず筋力を鍛えていないと、痛みが出るんです。
茶道、花道、芸道とか『道』につくものには、基本的にゴールがないですね。
本当に必要なことをコツコツやるしか方法がないなと思っています」
3歳で両親が離婚
祖父も父も酒乱でギャンブル好き、借金取りが家まで来るような生活の末、東山さんが三歳の時に両親は離婚します。
この離婚の原因の一つは、東山さんの大火傷もあったようです。
離婚後に、お母さん、妹さん、東山さんと三人で移り住んだのが「川崎市の桜本のコリアンタウン」でした。
東山さんは当時のことを「在日朝鮮人の方が持っている離れみたいな部屋を借りて暮らしていた」と振り返っています。
お母さんは、2人の子供のために朝から晩まで働き詰めで頑張っていたのですが、それでも暮らしは貧しいものでした。
そのため近所の家に食べ物のあまり物をもらいに行ったり、焼肉屋の朝鮮人母子から豚足を食べさせてもらったりしていたそうです。
遊ぶお金がなくて、お母さんからもらった銭湯代でゲームセンターに行き、風呂は学校のプールに忍び込んで済ませていたというから驚きです。
小学校4年生の時に母親が再婚
苦しい生活の中、一筋の光が見える出来事が起こります。
それは「母の再婚」です。
東山さんが小学校4年生のときでした。
再婚相手の父親となる男性は、お母さんより4歳年下のトラック運転手で、最初はとても優しかったそうです。
東山さんの「東山という性を変えたくない」という気持ちを尊重して、婿入りの形での再婚でした。
きっとこのとき、東山さんはこの優しさに希望を持ったことでしょう。
しかし、悲しいことに再婚相手の男性もお酒好きで、徐々に暴力を振い始めるようになってしまいます。
そしてこの義父からの暴力に対して、お母さんまでもが「お前が悪い」と言いかばってもくれなかったのです。
一筋の光に見えたこの再婚も、東山さんにとっては更に居場所がなくなるという悲しい結果となってしまいました。
しかも最初の離婚の時に、お母さんは東山さんに対して、
- 男の人は結婚したら変わる
- 大人になってもお酒は飲んではいけない
- ギャンブルをしてはいけない
と言い続けてきたにも関わらずこの結果だったので、子供心に深く傷付いたことでしょう。
「早く自立したい」東山さんはそう思うようになったそうです。
小学校6年生でジャニー喜多川氏に出会う
貧しく辛い生活を送る東山さんでしたが、小学6年生の時に転機が訪れます。
それはジャニー喜多川氏との出会い。
東京・渋谷にあるNHKの職員用理髪店に勤めていた東山さんのお母さんが、同局の音楽番組「レッツゴーヤング」の公開収録のチケットをもらいます。
そして東山さんは、春休みに友人と見に行ったそうです。
その帰りに、ジャニー喜多川氏から直接声をかけられ、スカウトされます。
帰り道、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていたら、車に乗った中年の男性から突然「どこから来たの?」と声をかけられた。それがジャニーさんだった。
サンスポ
ここから東山さんの人生が劇的に変化していきました。
ジャニーズ事務所へ入所
スカウトされたときは芸能界に興味がなかったため断っていたという東山さん。
しかし諦めていなかったジャニー喜多川氏は、東山さんを横浜で中華を食べようと誘います。
このとき妹さんがその道中で体調が悪くなり、ジャニー喜多川氏の車で嘔吐し、結局は東山さんの自宅でお寿司を食べたそうです。
事務所入は断っていましたが、妹さんのことがあったので菓子折りを持って、ジャニーズ事務所を訪ねます。
そこで「YOU、行こうよ!踊っちゃいなよ!」というジャニー喜多川氏に言われるがままステップを踏んでみると、右手と右足が一緒に出てしまい、周りから笑われたそうです。
これまで味わったことのない挫折感から「ステップができるまで」ということでレッスンに通い、出てくる豪華な食事などにもつられ、通い続けることに。
妹さんが来るまで吐いたこと、そしてジャニー喜多川氏の突然の「踊っちゃいなよ」がなければ、もしかしたら東山さんは芸能界入りしていなかったのかもしれません。
東山さんの妹さんは、「今のお兄ちゃんがあるのは私が吐いたおかげよ」と言っているそうですが、まさにその通りですね。
東山紀之の家族
東山紀之さんの家族は、実の父親、母親、妹、そして再婚した義理の父親となります。
実の父親は酒乱でギャンブル好き
東山紀之さんの実の父親は、ロシア人の血を引くクウォーター(祖父がロシア人とのハーフ)だそうです。
父親は酒乱でギャンブル好きで、お母さんは大変苦労したようです。
記事の始めの方で、東山さんの1歳のときに、お母さんが土下座をしていたというエピソードを紹介しましたね。
東山さんは、1歳のときの畳に包丁が刺さっている光景は覚えているのに、父親のことは顔も名前も覚えていないそうです。
ただ当時はお母さんが父親の顔も名前もずっと隠していたそうですが、後に写真を偶然見つけたようで、カッコよかったと振り返っています。
義理の父親は始めは優しかったが…
小学校4年生のときにお母さんが再婚して出来た義理の父親はトラック運転手の仕事をしていました。
「東山」の姓から変わりたくないという東山紀之さんの希望を聞いて婿入りの形を取るなど初めは優しかったようですが、次第にお酒を飲み、暴れ、手が出るようになっていきます。
優しかった人が、どんどん変わっていく姿を見るのは怖かったでしょうね。
東山さんのお母さんは、この2番目の父親とも後に離婚をしています。
母親は二度の離婚
父親が酒乱で借金をするような人だったので、お母さんはとても苦労していました。
朝から晩まで働き詰めだったと東山さんは話しています。
またお母さんはしつけがとても厳しい人だったようです。
母親は女手一つで子供2人を養うため、朝から晩まで働きづめ、ご飯と味噌汁を作るのは子供たちの仕事だった。
母親のしつけは厳しく、食事の作法などについて「ビンタなんて当たり前。いつも靴べらで叩かれた。ある意味トラウマ」と明かす
ライブドアニュース
昭和の時代では、子供を叱ったり怒ったり叩いたりというのはよくある事でしたが、靴べらは中々ハードボイルドですね。
これはトラウマになるのも頷けます。
でも子供のために朝から晩までは一生懸命働いていたのですから、すごいですよね。
それにしつけをきちんとするのは親の役目ですし、子供が成長してから恥をかかないためにも大切なことです。
完璧ではなかったでしょうけれど、子供に対する愛情はあったんだと感じます。
しかし、男性運はあまりなかったようで、最初の夫である東山さんの実の父親とは酒乱と借金が理由で離婚。
再婚した夫とも、離婚となっています。
再婚した二番目の夫との離婚理由については定かではありませんが、東山さんによると、お酒を飲んで暴れて手が出るありましたので、そういったことが原因だったのかもしれません。
妹
東山紀之さんには、3歳年下の妹がいます。
妹さんは小さい頃は喘息持ちだったそうです。
その喘息を克服するために、バレーボールをはじめ、後に自衛隊に入隊、何度か転職をして現在は建築関係の仕事をしているという情報がありました。
しかし現在の詳しいことについてはわかっていません。
妹さんは、東山さんがジャニーズに入ったことで一人になり、家を出ようと寮生活の仕事を選んだようです。
ですから東山さん同様、早く家から出て自立したかったのかもしれませんね。
まとめ
東山紀之さんの生い立ちについてしらべてみました。
非常に苦労してここまで来たのですね。
大変な生い立ちだったからこそ芸能界で成功できたのかもしれませんね。
現在ジャニーズ事務所の新社長として色々大変だとは思いますが、被害者の方への救済や所属タレントさん達のために日々頑張っておられることと思います。
それでは今回はこの辺で失礼します。
最後まで記事を読んでくださいましてありがとうございました。
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