ラグビー日本代表チームで主将を務める姫野和樹さん。
笑顔が可愛くていつも明るくニコニコしているイメージですが、実はかなりの苦労人なのです。
給食費が払えなくて滞納することもザラにあったというエピソードもあって、非常に驚きました。
今回はそんな姫野和樹さんの生い立ちについて調べてみました。
姫野和樹のWiki風プロフィール
名前:姫野和樹(ひめの かずき)
ニックネーム:ひめ、ひめちゃん
生年月日:1994年7月27日
年齢:29歳(2023年8月時点)
血液型:B型
出身地:愛知県名古屋市中村区
所属:トヨタヴェルブリッツ
ポジション:フォワード(NO8)
身長:187cm
体重:108kg
足のサイズ:30cm
姫野和樹はハーフ
姫野和樹さんは1994年7月27日に姫野家の長男として誕生します。
家族構成は「父・母・姉・姫野和樹さん・妹」の五人。
父親は日本人、母親はフィリピン人のハーフです。
姫野家にとっては初めての男の子、そして一人息子ということで、ご両親は姫野和樹さんの誕生をとても喜んだに違い違いありません。
「和」にはあたたかいや和やかという意味が、「樹」は生命力や自立心などがイメージできます。
大樹のように大きく、自分に打ち勝ち、周りにもあたたかい人、まさに姫野和樹さんはそんな人に育っていますね。
名は体を表すとは、こういったことを言うのでしょう。
姫野和樹の生い立ち
人懐っこい笑顔が魅力的な姫野和樹さん。
あの笑顔からは生い立ちの苦労は全く想像がつきませんでした。
「ラグビーでこの生活から抜け出すんだ」そう心に誓いここまで走り続けてきた姫野和樹さんの生い立ちを詳しく調べました。
幼少期
小さな頃の姫野選手は泣き虫でお母さんが大好きな子だったようです。
小さいころはいつも泣いてお母さんの足にしがみついているような子
女性自身 https://jisin.jp/sport/1787497/
すごく可愛い笑顔ですね。
小さな頃の写真ですが今の面影を感じます。
小学校の頃
姫野さんが通っていたのは「名古屋市立岩塚小学校」です。
泣き虫で甘えん坊だった姫野さんでしたが、小学校の途中あたりからは、自分で起きてご飯も一人で食べる自立した子に成長していきます。
こちらは近所の人の話です。
小学校を卒業するころにはすっかり自立していました。朝も自分で起きていましたし、ご飯も一人で食べてから学校に行っていました」(前出・近所の住民)
女性自身 https://jisin.jp/sport/1787497/
こちらは姫野さんが心の拠り所としている近所の神社。
この神社には公園も併設されていて、そこでサッカーをしたり木登りをしたり、友達とたくさん喋ったりしていたと話していました。
小学生の姫野さんにとっては、遊び場というだけではなく憩いの場でもあったに違いありません。
この公園には「幼き自分に会いに来て刺激をもらう」という姫野さん。
あの頃の自分に言葉をかけるとしたら?の問いに「強くなったよ、と言いたい」と答える姿には胸にジンとくるものがあります。
中学時代
名古屋市立御田中学校へ入学し、何か部活へ入ろうと考えた姫野さん。
体験入部したサッカーを辞めるときにコーチが引き止めてくれたこともあったので、始めはサッカー部に入ろうと思っていたそうです。
しかしラグビー部の松浦先生から「やってみないか?」と誘われて仮入部をしてみたところ、その楽しさのとりこになります。
体が大きかった姫野さんは、ぶつかってもファウルにならないラグビーはパワーのある自分にぴったりだ!と感じ、即入部を決めました。
ラグビーが楽しくて楽しくて、ラグビーをしている間は嫌なことを忘れられたという姫野さん。
昼休みにもボールを持ち出して自主練し、放課後になれば、誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くまで居残ってボールが見えなくなるまで練習しました。
元々体格が良かったのですが、中学3年になる頃には更に身長が187センチまで伸びたというから驚きです。
しかしこの頃の姫野さんは、「自分が自分が」という部分があり、練習相手の高校生とぶつかって相手が骨を折ってしまったこともありました。
中学の先生と腕相撲をして先生の腕が折れてしまったこともあったそうです。
パワーが有り余っていてそれを制御することが難しかった姫野さんに、ラグビー部の顧問の松浦先生は「本気禁止令」を出します。
「なんで俺だけ本気で練習しちゃダメなんだ」と反発する姫野さんに対して先生は「心を鍛えて一流となれ」と教えます。
しかし意味が分からず腹立ち紛れに練習から帰ってしまったこともあったそうです。
しかし心のどこかでは何かを感じていたのでしょう。
意味がわからないなりにずっと「一流ってなんだ?どうやったらなれるんだ?」と考え続けました。
ラグビーという競技に出会わせてくれ、心を鍛えることを教えてくれた松浦先生との出会いは、姫野さんの人生を大きく変えたのです。
高校受験
中学校3年生になると進学先を考え出します。
名古屋市立西陵商業高校と春日丘高校から「うちに来ないか」と誘われた姫野さんは、見学した結果春日丘高校への進学を決めました。
しかしこの高校は私立のためお金がかかります。
お金をかけずに春日丘高校へ行くには学費を減免してくれる推薦で入学するしかありません。
これまで全く勉強をしてこなかった姫野さんは、先生たちの懸命なサポートのおかげもあって、見事合格を果たします。
高校時代
高校に入学した姫野さんは、ここでも素晴らしい恩師に出会います。
春日丘高校のラグビー部監督・宮地真先生です。
宮地先生は元はラグビーを全く知らなかったのですが、独学でラグビーをゼロから学び、超弱小だったチームを県内有数の強豪校に育て上げた方です・
自宅が遠方で通えない生徒のため、自宅を学生寮に改築してしまったというエピソードもあるくらい生徒のことを考える先生に、姫野さんも何度も助けられました。
そんな宮地先生に少しでも恩返しがしたい!そう思って高校ではますますラグビーに打ち込みます。
そして見事花園への切符を2年連続で手にすることになりました。
大学時代
大学はラグビーの強豪校である帝京大学に進学。
ラグビー部監督(当時)の岩出雅之先生との出会いは、姫野さんを大きく変化させました。
入部当初から、とにかく岩出先生には怒られた。
およそ40人いる同期の中で、僕が断トツ一番怒られたんじゃないだろうか、というくらい、選手として人間として未熟さを指摘され続けた。
岩出先生は、心の未熟さが僕の“弱さ”だとすぐに見抜いていたのだ。
https://gendai.media/articles/-/115017?imp=0
岩出先生からの教え、帝京大学ラグビー部の先輩たちからの教え、そして1年生の時の大きな怪我から、姫野さんは多くのことを学びます。
上級生のその背中を見て、僕は自分が恥ずかしかった。
他人やケガのせいにしてばかりで、意識の“矢印”が自分自身に向いていない自分が恥ずかしくなっていった。
「オレも変わらなきゃいけない」
https://gendai.media/articles/-/115017?page=5
「強くなりたかったら、今の考え方を変えなきゃいけない」
そこでようやく、成長の入り口に辿り着いた。
帝京大学ラグビー部での経験は、姫野さんにとって「人として成長するため」のかけがえのない時間となりました。
貧しい生活の中での辛かった壮絶エピソード12とは
続いては姫野さんが過ごしてきた人生の中での、壮絶だったエピソードを12ご紹介します。
小学校時代
①家に友達を呼んだことはない
姫野さんは、家族5人で六畳二間の木造アパートに住んでいました。
そのアパートが建てられたのはなんと1970年代で、家賃は約4万円。
玄関を入ると右手に小さな台所、左手にトイレとお風呂、そして奥には縦に6畳間が2つ。
夜寝る時は、手前の部屋に姫野さんとお姉さん、妹さんの子ども3人が、奥の部屋に両親がという形で、自分の部屋を持つなんて絶対に無理な環境で育ちました。
小さな家の中は物が溢れて散らかり放題、友達を家に呼んだことは一度もなかったそうです。
それどころか住んでいる家を見られたくなくて、わざと遠回りして帰ることもあったそう。
姫野さんは高校卒業までこの小さなアパートで暮らしていました。
②駄菓子屋でもお菓子を買わない
近所の駄菓子屋に、よく友だちと訪れていた姫野さん。
けれど姫野さんは駄菓子屋さんに来てもお菓子を買わずに友達が食べ終わるのをただじっと待っていたのだそうです。
お店の経営者の女性の話↓
「友達と駄菓子を買いに来るのですが、姫野くんだけお金を持っていなくて。友達が食べ終わるのを、じっと待っているんです。
でも、たまに10円玉を握りしめて店に来ることがありました。
頑張ってためたそのお金で、彼はくじ付きのお菓子を1つ買うんです。
でも、なぜかいつも“はずれ”で。
そのたびに『ああ残念』とうなだれて帰っていました。裕福ではなかったと思います。
でも、常に明るく元気なので応援したくなるような子でした」
女性自身 https://jisin.jp/sport/1787497/
この時の姫野さんの気持ちを考えると胸が痛みます…。
③消費期限のパンをもらう
またこんなエピソードもあります。
この駄菓子屋さんでは売り物のパンの消費期限が来ると「解放」といっておばちゃんがパンをくれるんだそうです。
姫野さんは毎日5時にこの駄菓子屋に来て「おばちゃん、パンある?」と聞いていたのだそう。
「あるよ」とおばちゃんが言うのを楽しみにしていたのでしょう。
笑って話していましたが、聞いていて切なくなりました。
100円くらいのパンを買えない子供時代を過ごす人が一体どれだけいるのでしょうか?
④野球もサッカーも続けられない
姫野さんは運動神経が良く、どんなスポーツでも上手だったそうです。
子供がよくやるスポーツといえばサッカーと野球が代表的ですよね。
姫野さんはもサッカーと野球の体験入部をしたことがありました。
しかし、続けるとなると月謝や道具を揃えるためのお金が必要になるため、どちらも体験入部しかできなかったのです。
元々運動神経は良かったし毎日外を走り回っていたから、どんなスポーツでも人並以上にできた。
小学生の時には、地元の野球チームやサッカーのクラブチームに体験入部したこともあった。だが野球は、バットやグローブなどの用具を一式買い揃えるのにお金がかかる。
https://gendai.media/articles/-/114185?page=2
サッカーもクラブチームの月謝が払えないので、どちらも体験までで続けることは諦めるしかなかった。
サッカーの体験入部期間が終わって「辞めます」と伝えると、コーチがわざわざ家にまでやってきて引き留めてくれたこともありました。
「姫野君、このままサッカーを続けたら絶対に日本代表のキーパーになれるから、なんとかして続けてもらえないか」とまで言ってもらえてもお金のことで続けられない…。
自分の可能性が見えてもそこで頑張ることができないジレンマは、相当辛かったでしょう。
⑤親がパチンコ漬け
姫野さんの家は、ご両親とも働いていました。
お父さんは近所の鉄工所で、お母さんは介護施設で働いていたようです。
しかし決して余裕がある生活ではありませんでした。
ですがそんな余裕のない生活の中、給料が入るとお父さんもお母さんも朝から晩までパチンコへ行ってしまったのです。
給料日直後のお金に余裕がある時は、朝から晩までずっとパチンコで帰って来ない。
https://gendai.media/articles/-/114184?page=2
⑥給食費を毎月滞納
パチンコが大好きな両親は、必要最低限のお金以外はパチンコにつぎ込んでいたようです。
ですから姫野さんは毎月給食費を滞納することになり、先生から給食費を催促されていました。
毎月毎月、パチンコであっという間にお金を使い切ってしまっていたのだろう。
給食費もまともに払えなかった。
僕は毎月必ず、先生から給食費を催促された。
職員室に呼び出されて言われるならまだマシなほうで、教室で、クラスメイト全員の前で言われたことも何度もある。子どもといえど、さすがにしんどかった。
https://gendai.media/articles/-/114184?page=2
先生としては悪気はなかったでしょうが、友達の前で給食費のことを言われるのはやっぱり辛かったと思います。
⑦コンビニのご飯
給料日が来て両親がパチンコへ行ってしまうと、夕飯を作ってはもらえませんでした。
学校から帰ると「おかえり」と言ってくれる人はなく、ただテーブルの上にお金が置かれていたそうです。
そういう時、学校から帰ってくるとテーブルの上にはいつも千円札が置かれていた。
「これで夕飯を食べなさい」という意味だ。
その千円札を持って近所のコンビニに行き、おにぎりを3つと”唐揚げ棒”を買う、というのが僕のお気に入りのセットだった。
https://gendai.media/articles/-/114184?page=2
小学生の子供が、いつも自分で夕飯をコンビニへ買いに行く姿を想像すると胸が痛みます。
中学時代
⑧練習着も靴もボロボロ
練習用ジャージが破れてしまっても、姫野さんの家はお金がなかったので簡単には買い換えられなかったり、またスパイクどころか運動靴もボロボロで、破けたつま先から親指が見えていたりしたそうです。
⑨お金を払えず選抜を辞退
姫野さんは中学生のときに活躍が認められて、愛知県選抜のフォワード候補選手に選ばれました。
しかし選抜チームが参加する大会への遠征費用が払えなかったため断ったことがあるそうです。
遠征費用は4万円ほどでしたが、うちにそのお金は払えないと判断した姫野さんは、親には言わずに自分の判断で「辞退しよう」と決めました。
ラグビー部顧問の松浦先生には「お金がなくて行けない」という本当のことは言えず、嘘を付きます。
「先生、オレ、県選抜の監督が好きじゃないんでセレクション行かないです」
当然、松浦先生からはこっぴどく怒られた。 「そんな理由で県選抜に行かないヤツがあるか!」
現代ビジネス
選抜へ参加できないだけではなく、嘘をつかなくてはいられなかった中学生の姫野さん。
本当に辛かったと思います。
⑩高校受験は学費減免しか道はない
中学校3年生になって、名古屋市立西陵商業高校と春日丘高校から「うちに来ないか」と誘われた姫野さんは、見学した結果春日丘高校への進学を決意します。
しかしこの春日丘高校は私立のため学費が高く、お金をかけずに春日丘高校へ行くには学費を減免してくれる推薦で入学するしかありません。
授業で寝ないようにすることが精一杯というところからの受験勉強の始まりでした。
これまで全く勉強をしてこなかった姫野さんでしたが、先生たちの懸命なサポートのおかげもあって、ギリギリではありましたが、見事合格を果たします。
高校時代
⑪合宿費用を建て替えてもらう
高校の時にラグビー部の夏合宿の費用がどうしても払えなかったことがありました。
どうしようもないので姫野さんは参加しないつもりで諦めていました。
けれどもラグビー部の顧問である宮地先生が、姫野さんの合宿費を立て替えて払ってくれたのです。
宮地先生は姫野さんの実家がお金がないことを知っていて、常に気にかけてくれたそうです。
⑫死を考えた
姫野さんはこれまでに一度だけ「死のう」と思ったことがあります。
これがいつの時期なのかは、はっきりしないのですが、中学生頃かもしれません。
「死にたいな……」 「死んだほうが、きっと楽だよな……」 台所から包丁を持ってきて、両手で自分の喉に突き立てようとした。あと数ミリで鋭い刃先が刺さる、喉の皮膚のすぐそばまで近づいてくる―あの時の何とも言えない感覚を今もはっきり覚えている。
そこで踏みとどまることができたのは、友達の顔が浮かんだからだ。
現代ビジネス
小さな頃から貧しさに負けないよう気持ちを張り詰め、頑張ってきた姫野さんでしたが、お金がないことの辛さに耐えきなくなった瞬間もあったんですね。
このときに思い出したことは、
寒さに震えながら夜遅くまで友達と公園でくだらない話で大笑いしたこと。
友達が半分分けてくれたホカホカの肉まんの美味しさ。
みんなで少しずつお金を出し合って食べたカップ麺の美味しさ。
これまでに友達から楽しさと優しさ、暖かさを貰っていたから、踏みとどまったと話していました。
姫野和樹はなぜ貧困だった過去を公表したのか?
姫野選手はなぜ子供時代に貧しく苦労をしたことを話したのでしょうか?
それは、きっと今もどこかで同じようなことで苦しんでいる子どもたちがたくさんいるはず。
その子どもたちを少しでも勇気づけたり、僅かな光を感じさせることができれば…という思いからでした。
情熱大陸さんのYouTubeにて、特別映像公開されてます。
僕はあまり自分の幼少期の事とか人に話すことなくて、寧ろコンプレックスに思っていた時期がありました。
でも、発信しようと思ったのは同じ境遇の子供たちが他にもいるだろうと思ったからです。
勇気を感じて貰えれば嬉しいなって思います。
姫野選手は、貧しく苦しい思いをしたことについて、誰かを恨んだり両親のせいだと思ったことはないと語っていました。
子ども時代の事情を知っている人からは、こう言われることもある。
「よく、親のせいにしたり誰かのせいにして、グレたりしなかったね……」
「楽なほうに逃げたりしなくて、子どもの頃から強かったんだね……」
誰かを恨んだり親のせいにしたり、という考えや感情は湧いてこなかった。
現代ビジネス
まとめ
ラグビー日本代表の主将、姫野和樹選手の生い立ちや壮絶だったエピソードをまとめました。
本当に苦労をしてきたんですね。
あの笑顔からは想像もつきませんでした。
姫野選手のこれからを応援せずにはいられません。
そして今もどこかで苦しい思いをしている子どもたちが、姫野選手のように自分の幸せを掴むことができるようにと願います。
最後まで記事を読んでくださいましてありがとうございました。
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