10月7日のイスラム組織ハマスによるイスラエルへの大規模攻撃は、世界中に衝撃を与えました。
この大規模攻撃が始まって以来現在も、イスラエル軍とパレスチナ武装勢力ハマスどちらも死者が増え続けてる事態が続いています。
このイスラエルとパレスチナの問題では、「どちらが悪いのか」という疑問を抱いている人が多いでしょう。
ということで今回は、イスラエルとパレスチナの問題について調べ、わかりやすくまとめてみたいと思います。
イスラエルとパレスチナはどちらが悪いのか
結論から記述しますと、この問題はどちらが悪い良いという言葉で簡単に片付けることはできません。
なぜならこれは、イスラエルとパレスチナだけの間で起こった問題だとは言えないからです。
イスラエルとパレスチナの問題を考えるときには、ユダヤ人の長い歴史を振り返ることが必要になってきます。
そしてユダヤ人の国イスラエルの長い歴史の中では、様々な国が関わっていて、関わった国の中にはすでに消滅している国もあります。
2000年3000年規模の歴史的な背景もあることから、パレスチナが悪いとかイスラエルが悪いとか、断言することはできないのではないでしょうか?
ただし、イスラエル・パレスチナ問題においては、第一次世界大戦時のイギリスが大きく関わっています。
そのため「イギリスがこの問題においての原因である」という意見も多いようです。
下記は「パレスチナ子どものキャンペーン」という認定NPO法人に記載されている、イスラエル・パレスチナ問題のイギリスについての記述です。
第一次世界大戦とイギリスの「三枚舌外交」
第一次世界大戦中、イギリスは戦争資金を調達するためユダヤ人コミュニティに協力を仰ぎ、 「パレスチナにユダヤ国家建設を支持する」と表明した書簡を送りました(「バルフォア宣言」)。
しかし同時に、オスマン帝国からの独立をめざすアラブ民族主義をも利用すべく、 メッカの太守フセインに対してイギリスへの協力の代わりに「アラブの独立支持を約束する」という書簡も送ります (「フセイン・マクマホン協定」)。
そしてさらに同盟国であるフランスとは、戦争終結後は分割するという協定(「サイクス・ピコ協定」)を秘密裏に結びます。
戦争終結と英仏同盟国側の勝利により、パレスチナとヨルダンはイギリス、レバノンとシリアはフランスの委任統治領になりました。イギリスがアラブとユダヤ双方に対し相反する約束をしたことが、二つの民族主義の衝突の芽となりました。
パレスチナ子どものキャンペーン https://ccp-ngo.jp/
最後の一文にははっきりと「イギリスがアラブとユダヤ双方に対し相反する約束をしたことが、二つの民族主義の衝突の芽となりました。」と書かれていますね。
もちろんイギリスは別に悪くないという意見も多くあります。
こういった問題は捉え方も人ぞれぞれですから、意見が分かれるのは当然のことだと思います。
第一次世界大戦におけるイギリスの行動について、次で簡単に説明していきます。
三枚舌外交とも呼ばれたイギリスの行動
第一次世界大戦でのイギリスによる「フセイン・マクマホン協定」「サイクスピコ協定」「バルフォア宣言」。
これがイギリスの三枚舌外交と言われているものです。
それぞれを簡単に説明するとこんな感じです。
フサイン・マクマホン協定
1915年にイギリスが、オスマン帝国の支配下にあったメッカの太守であるフサイン・イブン・アリー(イスラム教スンナ派)に持ちかけた協定です。
オスマン帝国に反旗を翻すときに支援するという内容のものでした。
◆フサイン・マクマホン協定 (イギリスのエジプト高等弁務官であるヘンリー・マクマホンが、アラブ人の名家の王様であるフサインに持ちかけた)
イギリス「勝ったらあの辺りにアラブ人である君たちの王国を作ってあげるよ!」
アラブ人「やったー! 頑張って反乱軍を作ってイギリスに協力しよう!」
サイクスピコ協定
1916年に、イギリスがフランスとロシア帝国と交わした秘密協定です。
内容はオスマン帝国領を分割するというもの。
◆サイクスピコ協定 (同じ協商国の仲間であるフランス・ロシアと密約を結んでいた)
イギリス「戦争に勝ったら喧嘩しないようにみんなの取り分を決めておこう!」
フランスとロシア帝国「了解! 中東は山分けってことね」
分割は以下の通りです。
◆シャーム、アナトリア南部、イラクのモースル地区をフランスの勢力範囲とする。
◆シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
◆黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
バルフォア宣言
1917年11月2日に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明です。
◆バルフォア宣言 (外務大臣アーサー・バルフォアがユダヤ系貴族議員(銀行家の金持ち)に持ち掛けた)
イギリス「勝ったらあの辺りにユダヤ人の国を作ってあげますからよろしく!」
ユダヤ人「やったー! それなら戦争資金を援助させてもらうよ!」
3つの外交政策の結果
ユダヤ人・アラブ人・フランスとロシアの気持ちを簡単に説明するとこんな感じですかね。
★ユダヤ人「俺たちのエリアにしてくれるんだよね?」
★アラブ人「俺たちの王国がつくられるんだよね?」
★フランス&ロシア帝国「俺たちで山分けするはずだったよね?」
こんな感じで、第一次世界大戦の際にイギリスが戦争を優位にすすめるために、ユダヤ人・アラブ人そしてフランスとロシア帝国とそれぞれの間で約束を交わしていたんですね。
ただこの3つの協定について、厳密に言えばそれほど矛盾はしていないという見解もありますので、非常にややこしいです。
しかし線引きを厳密に適用すれば、パレスチナはそもそもアラブ人国家のエリア内に含まれないこと、またサイクス・ピコ協定で規定されたフランス支配地域も、フランス直接統治領に限っていえば(ダマスカス近辺は被るものの)概ねフサイン=マクマホン協定のエリア内に含まれないことから、それぞれの内容は、実はそれほど矛盾していない。
しかし、このイギリスの秘密外交がシオニストらの反発を買い、パレスチナ問題の要因となった。
フサイン=マクマホン協定wikipedia
イギリスの理屈を簡単に説明すると、こんな感じですかね。↓
★サイクスピコ協定ではパレスチナは国際管理区域となっている
★バルフォア宣言ではユダヤ人の郷里とした区域に帰れるとは言ったが国を作れるとは言っていない
★フサインマクマホン協定にはパレスチナが含まれていない
★だから矛盾していない
矛盾はしていなくてもこの3つの外交政策は、シオニストの反発を買ったことには違いないと思われます。
シオニズムとは
シオニズムとは聖地エレサレムを意味する「シオン の丘」という言葉に由来し、シオニズム運動とはパレスチナの地にユダヤの国をつくる運動をさす。
こういった経緯があるので、イスラエルとパレスチナのどちらが悪い、と単純に言い切れない問題であり、イギリスが悪いという意見が最も多くなったわけです。
しかし、「バルフォア宣言もユダヤ教徒の皆さんには良いことをしたし、宣言では先住民に十分配慮するようあるのでイギリスには責任はない、後々のことはイスラエルとアラブパレスチナの人たちの間の問題でありイギリスは関係ないだろう」という意見もありますね。
イスラエルとパレスチナの簡単な歴史
イスラエルとパレスチナ、それぞれの歴史について少し調べてみました。
イスラエル
イスラエルはユダヤ人の国です。
ユダヤ人の歴史を語る上で重要なのはかの有名な「聖地エルサレム」ですね。
今から3000年ほど前の紀元前1000年頃、ユダヤ人は神の名のもと聖地エルサレムに豊かなイスラエル王国を築きます。
そして三代目のソロモン王は、エルサレムにユダヤ神殿という立派な神殿を建てました。
しかしソロモン王の死後、弱体化したイスラエルは周辺国からの侵略により破壊され、ユダヤの民は侵略国新バビロニアに連行され50年もの長い期間、異国の地で生活することを強制されました。
ユダヤ人の放浪の旅はこれが始まりだったのかもしれません。
以下本当に簡単にイスラエルのこれまでについてまとめました(かなり簡素にしてあります)。
紀元前1000年頃にイスラエル王国を築き、エルサレムにユダヤ神殿を建設
↓
周辺国からの侵略を受け国が崩壊し、ユダヤの民はバビロニアへ連行される
↓
新バビロニア王国がペルシャに滅ぼされたことでユダヤの民はエルサレムに戻り、第二神殿を建設、支配下ではあるものの自分たちで国を治める
↓
ローマが侵略してきてヘロデ王がイスラエルの地を支配、その支配は次第に厳しくなっていく
↓
圧政に耐えかねたユダヤ人は反乱を起こす
↓
強大なローマ軍により鎮圧され、国を破壊される
↓
多くのユダヤ人が世界中に散らばり、以降2000年近く国を持たない民として暮らしていく(その地に残ったユダヤの民もいる)
↓
19世紀後半に世界に分散していたユダヤ人たちの「シオニズム運動(パレスチナの地にユダヤ人の国を作る運動)」が盛んになりパレスチナへのユダヤ人の移住が急増する
↓
オスマン帝国の力が低下し始めイギリスがユダヤ人に対しシオニズム支持を表明(バルフォア宣言)
↓
オスマン帝国が倒され、イギリスがパレスチナ・ヨルダン・イラクを委任統治する。この間シオニズムが盛んでパレスチナ特にエルサレムでのユダヤ人の人口が増える。
↓
ユダヤ人の人口が増えていくにつれ、3つの宗教、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教では争いが頻発するようになる
↓
1948年、委任統治の期間が終わるにあたりイギリスが「ユダヤ人の国とアラブ人の国に2つに分ければいい」と提案し、国連もそれを承諾
↓
イスラエルがパレスチナ分割案を受諾し独立宣言するが、アラブ側はこれを不満とする
↓
アラブ側からの戦争宣言で第一次中東戦争勃発
↓
事実上イスラエル側の勝利となるが、聖地がある東エルサレムは取れず不満が残る形となる
ずっと国を追われていたイスラエルがやっと取り戻した土地に執着するのは仕方のないことのような気がします。
また国連の分割案を受け入れて建国宣言をした際に、アラブ側から起こした第一次中東戦争で事実上勝利しているので、その時点でイスラエルの領土が広がったのはどうしようもないのではないでしょうか…。
パレスチナ
元々はユダヤ人のイスラエル王国があったのですが、ユダヤ人がローマ帝国との戦いに破れ追い出される形となります。
その後しばらくはローマ帝国が支配していたのですが、7世紀頃、アラブ軍がエルサレムに攻め込み、支配下におきました。
そしてその時にユダヤ神殿がかつてあった土地の真上に、かの有名な「岩のドーム」が作られたことで、この地はイスラム教の第三の聖地となりました。
やがてイスラエルがあったところはパレスチナと呼ばれるようになり、イスラム勢力の支配下におかれ長い間アラブ人が主体となって暮らしていくこととなります。
しかし19世紀後半に、ユダヤ人達の「シオニズム運動」が盛んになり、多くのユダヤ人がパレスチナへ移住するようになります。
そしてオスマン帝国の支配下だったパレスチナには、20世紀初頭にはイスラム・ユダヤ・キリストの3つの宗教がそれぞれ三分の一ずつくらいの割合で住んでいたようです。
その後の簡単な経緯はこんな感じです。↓
イギリスとの間にフサイン・マクマホン協定が結ばれる(アラブ人の名家の太守フサインに「オスマン帝国に勝ったらアラブ人の国を作る」と持ちかけた)
↓
オスマン帝国が倒されパレスチナはイギリスの統治下に置かれる
↓
委任統治を終えるイギリスが「ユダヤ人の国とアラブ人の国に2つに分ければいい」と提案し、国連もそれを承諾
↓
イスラエルが分割案を受諾し独立宣言するが、これに対し不満だったアラブ連合エジプト・レバノン・シリア・ヨルダン・イラクが戦争宣言(第一次中東戦争)
↓
事実上イスラエルが勝利
↓
アラブ側であるパレスチナは国連の分割案からさらに国土を失う形となる
↓
以後これまでずっと紛争が絶えないこととなり現在に至る
突然領土を切り取られた形となったパレスチナ側の納得がいかないという主張も当然ではないでしょうか。
そしてイスラエルは国連が定めたラインを超えて入植地を広げてきたという経緯もあります。
1947年11月に国連総会で決議されたパレスチナをアラブ人とユダヤ人の居住地にしたがって分割する案「パレスチナ分割案」というものがあります。
この分割案をユダヤ人は受諾してイスラエルを建国しました。
しかしアラブ人は不満であったため翌1948年、パレスチナ戦争が勃発します。
のちに「第一次中東戦争」と呼ばれることになったこの戦争では、イスラエルが事実上勝利したため、パレスチナは元の国連の決めた分割案よりも多く土地を取られる結果となりました。
こういった経緯からパレスチナよりイスラエルが悪いと考える人も多くいるようです。
まとめ
色々調べてみましたが、イスラエルとパレスチナの問題は非常に複雑で、どちらが悪いということは決められないと思います。
宗教問題も絡んでくるために争いは複雑化し、長期化している要因の一つでもあるのですが、戦いで苦しみ傷つくのはいつも力のない一般市民。
平和に解決する方法はないのでしょうか…一刻も早く争いが終わることを願います。
最後まで記事を読んでくださいましてありがとうございました。
コメント